三浦半島 戦争遺跡フィールドワーク

フィールドワーク記録

アジア太平洋戦争本土決戦の戦跡を訪ねる

 

案内:貝山地下壕保存する会

   

コース:宿舎「マホロバマインズ」出発→松輪(剣崎砲台台座2基・探海灯格納庫)→

福泉寺(第56震洋隊本部)→江奈湾(振洋艇格納庫・マリア観音)→京急三浦海岸駅解散

参加者:23名(案内者含む)

 

 寒風の中参加者一同マイクロバスに乗り込んで、元気に出発。座席は補助席を含めほぼ満席であった。大型バスの使用も検討したが、道が細くて大型では目指す遺跡に近づけないのでマイクロバスにしたという。今回のツァーの頼りになるコーディネーターは神奈川歴教協のNさん。バスが走り始めると、車内では今日の案内者貝山地下壕保存する会のIさんとYさんにより、早くも地図や遺跡の写真を示してのレクチャーが始まる。Iさんは大学3年生。中学生の頃からから地元に残る砲台跡や格納庫を探検し調査していたという、イケメン青年である。

 

1.剣崎砲台台座

 三浦半島に特有の大根畑の広がる風景を見ながら尾根道を南下し、フジモト商店の看板の残るコンビニ付近でバスを降りて農道を東に進むと、行く手に大きな円形のコンクリート台座が現れた。一同興奮して急ぎ足になり近づいてみると、直径10mほどの頑丈なドーナツ状のコンクリート構造物が、畑の中に半ば埋まっている。これが上部に砲を載せて回転させ方向転換するための台座で、2基あるうちの南側のA砲台である。地下には砲弾を装填したり兵士が待機したりするためのコンクリート製防御施設が存在したはずだが、現状は埋まっているため不明である。

 

南側の砲台台座
南側の砲台台座
北側の砲台台座
北側の砲台台座


更に進むと道の先に北側のB砲台台座が見えて来る。これも円形のコンクリート台座で、A、Bとも残存している台座には高さが無いため、近くに寄らないと気が付きにくい。大きさはこちらも同じく径10mくらいだが、B台座の方が残存状態は良さそうで、西側の斜面には砲塔の地下施設への入り口が見られる。その入口は頑丈なコンクリート製で、内部のほとんどは土砂で埋まっているが、アーチ形の入り口の上端部分は開口している。スコップでも持ってきて土砂を掘り除けば、内部に入ることも可能に思える。好奇心満々の参加者は、内部施設の状況はどうなっているのかと未練がましく内部を覗き込んでいた。

 

西側斜面に残る砲台地下施設入り口
西側斜面に残る砲台地下施設入り口
入り口の最上部は開口している
入り口の最上部は開口している

 

 この2基の砲台台座が設置されたのは意外と古く、1924(大正13)年の起工で、完成したのは1927(昭和2)年である。東京湾防備のための施設としてこの地域一帯が砲台敷地とされ、この砲台には東京湾第二海堡に据え付けられていた克式砲塔15cmカノン砲を転用して移設したそうである。アジア太平洋戦争末期には、本土決戦用陣地としてこの砲台周辺にも兵員が配備されたが、本土決戦前に降伏したためここでの実戦は無かったということだった。

 

2.探海灯格納庫

 砲台台座から海に向かって大根畑の間の道を23分歩いて行くと、探海灯格納庫跡が残されている。平たい砲台台座と違って、こちらは樹木が茂った小さな塚状になっているので、遠くからでも目につく。格納庫をカモフラージュするための壕の高さは78m、直径は15m前後だろうか、コンクリートの出入口が陸側に開口している。分厚いコンクリートがぽっかりと口を開け、入り口には樹木がからみついて、結構不気味な雰囲気である。

探海灯というのは名前の通り海上を索敵のため照らす探照灯である。従って光は上空に向けるのではなく、崖の上から下に向かって海を照らす。塚の左側に回り込んで観察すると、積み土が一部崩れて断面が露出していた。格納庫のコンクリートは厚さ50cm以上ありそうな頑丈なもので、最も内側のモルタルとその外側のコンクリートの間に黒いコールタールの層が見られた。恐らく防水のためではないだろうか。コンクリートの外側は土をしっかり突き固めて盛ってあり、古墳築造の際の版築を思わせるような層が見られた。

 

 入り口に戻って内部を観察する。土砂が流れ込んではいるが、十分内部に入ることが出来るので、案内のYさんはメジャーを使って計測を始めた。これも好奇心の強い参加者の面々が手伝い、手の届かないコンクリート天井までの高さは、拾った棒にメジャーを括り付けて測る。

 

道の先に探海灯格納施設が
道の先に探海灯格納施設が
格納施設入り口
格納施設入り口


 計測の結果アーチ状の入り口は、幅4m、天井までの高さ3.65m、奥行き4.9mだった。入り口から奥壁まではほぼ同じ幅なので、内部の広さは約20㎡だろうか。壁の内側には現在も白く塗られた漆喰が残っている。コンクリート入り口の左右には幅56mの袖状にコンクリート壁が構築され、入り口上部に高さ4mぐらいの壁となって続いている。実に頑丈な造りで、上空からの爆撃などには十分耐えられる構造と思われた。

 しかし出入口は陸側に開口しているので、実際に海を照らす際にはどのように照らしたか疑問に思った。すると実戦で使用する場合は、この壕から探海灯を引き出して海際の崖まで運び、そこに設置して使用するという説明であった。壕の外には、探海灯を引き出す際に使用したと思われるレール状の構造物の跡も残っていた。

 

左側袖壁
左側袖壁
引き込み用レール
引き込み用レール

 

3.福泉寺と震洋隊本部

 農道をフジモト商店のコンビニまで戻り、更に少し歩くと福泉寺に到着。ここは戦争当時第56震洋隊の本部が置かれていた寺である。境内には「第56震洋特別攻撃隊岩舘部隊の碑」と由来が記された立派な石碑が建てられている。震洋とは本土決戦用の海軍の特攻兵器として考案されたもので、簡単に言えばベニヤ板製のモーターボートである。250キロ爆弾を積んで人が操縦したまま、敵艦に体当たり攻撃をすることになっていた。戦争末期に各地に配備され、沖縄戦では実戦に使用された。また訓練中の事故も多く、計約2500名の戦死者が出ている。19455月から、東京湾守備のため松崎の江奈湾基地に配属されたのが第56震洋隊で、その本部が置かれたのが福泉寺であった。隊員127名は4軒の民家に分宿し、岩舘康男隊長がこの泉福寺を宿舎とした。

住職さんが出てきてお話をして下さった。兵隊たちは17歳ぐらいから21歳ぐらいと若く、分宿した民家では、漁師の家だと魚が出されたり待遇もまちまちだった。探海灯は陸軍の管轄だったが震洋隊は海軍で、陸軍と海軍は兵隊も仲が悪く一度大きなケンカが起きたが、隊長は隊員をかばった。出撃命令は一度だけ出たがそれは誤報で、第56震洋隊は一人の戦死者も出さずに終戦を迎え、解散したということだった。その後毎年海軍記念日(527日)頃に震洋隊の元兵士はこの寺に集まって旧交を温めていたが、最近はだんだんその数も少なくなった。境内の震洋隊記念碑はこの元兵士の会が建立したものである、ということだった。


住職と神奈歴Nさん
住職と神奈歴Nさん
境内の慰霊碑-「是法平等」とある
境内の慰霊碑-「是法平等」とある

 

4.マリア観音と震洋艇格納庫

バスに戻って半島を南下して行くと、静かな江奈湾に着く。そこには松輪漁港があって、小型漁船が沢山停泊していた。漁港近くの町内会館のような地蔵堂の建物の中に、珍しいマリア観音が保存されている。キリシタン禁制が厳しかった江戸時代に、密かに信仰を守った潜伏キリシタンの人々が拝んだと思われる石造のマリア観音で、上部には卍に見せかけた十字架も記されている。ただしこのマリア観音はこの地域で信仰されていたものでは無く、漁師の網にかかったものをこの地蔵堂に一緒に祀ったということらしかった。

次に漁港近くの民家の裏にある、震洋艇格納庫を見せていただく。格納庫は半ば物置のようにされた洞窟だが内部は結構広く、ドーム状の天井の様子から、震洋2艇が格納された壕だとわかる。


 

地蔵に挟まれた中央がマリア観音
地蔵に挟まれた中央がマリア観音
震洋格納庫
震洋格納庫


  壕の所有者である民家の御主人は、もう掘られてから70年もたつので、天井がいつ崩落するかわからないと心配されていた。

 以上で本日の全見学コースを終え、三浦海岸駅でバスを降りて解散した。寒くはあったが晴天に恵まれ、若いIさんとベテランのYさんによる、熱心で分かりやすい説明のおかげで、大変充実した見学となった。フィールドワークの企画運営をして下さった皆さんに、心からお礼申し上げます。

(記録 神奈歴会員M)

 

 

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